朝青龍 明徳さん
相撲 第68代横綱
朝青龍 明徳さん
相撲 第68代横綱PROFILE
本名 ドルゴルスレン・ダグワドルジ生年月日 1980年9月27日
出身地 モンゴル・ウランバートル
身長185センチ 体重139キロ
得意技 右四つ寄り・突っ張り
座右の銘「一生懸命」
朝青龍さんの学生時代は・・・
まさか自分が横綱になるとは思ってもみませんでした。
私はモンゴルの出身で、16歳のとき高知の明徳義塾高校に留学してきたんです。もともと父がモンゴル相撲の関脇を務めたことのある格闘家で、子供のころから自分も格闘家になりたいというあこがれはありましたし、母からは目標を持って努力することの大切さを教え込まれてはいたんですが、まさか自分が日本に来て、大相撲の頂点である横綱になろうとは思ってもみませんでした。
日本に来たきっかけは、明徳義塾高校の吉田校長先生と相撲部の浜村監督がモンゴルに来られて、モンゴル相撲のセレクション大会をご覧になって、優勝した自分に日本に来ないかと声をかけていただいたんです。高校2年のときでした。自分はすぐに「日本に行きたい」と返事をしました。当時はまだ体重が78キロしかありませんでした。関西空港に到着して、生まれて初めて海を見ました。高知へ着いた第一印象は暑いということでしたね。
明徳義塾高校相撲部では、監督と部員が一緒に暮らして練習に励んでいるんですが、モンゴル相撲をやっていたとはいえ、四股(しこ)もすり足もできません。最初は相撲は取らせてもらえず、基本だけを繰り返し練習しました。
高校時代の一日は、朝7時過ぎに食堂に集合して、感謝の言葉を唱えてから朝食を取ります。モンゴルのある北の方向に向かって頭を下げてから朝ごはんを食べていました。明徳義塾高校にはほかにも中国や韓国、オーストラリアなどから留学生が来ていたんですが、モンゴル語を話せる先生はいなくて、ひとつ年上の先輩に通訳してもらうこともありました。授業を受けたあと3時ごろから6時まで相撲部の練習がありました。そのあとちゃんこ部屋と呼ばれていた相撲部専用の食堂で夕食を取るんですが、モンゴルでは生魚を食べないとか違いがあって、最初はきつかったですね。一緒にモンゴルからやってきたダシ(現・朝赤龍)と夕食にはどんぶり飯5杯食べなければならないというノルマもありました。
日本に来たきっかけは、明徳義塾高校の吉田校長先生と相撲部の浜村監督がモンゴルに来られて、モンゴル相撲のセレクション大会をご覧になって、優勝した自分に日本に来ないかと声をかけていただいたんです。高校2年のときでした。自分はすぐに「日本に行きたい」と返事をしました。当時はまだ体重が78キロしかありませんでした。関西空港に到着して、生まれて初めて海を見ました。高知へ着いた第一印象は暑いということでしたね。
明徳義塾高校相撲部では、監督と部員が一緒に暮らして練習に励んでいるんですが、モンゴル相撲をやっていたとはいえ、四股(しこ)もすり足もできません。最初は相撲は取らせてもらえず、基本だけを繰り返し練習しました。
高校時代の一日は、朝7時過ぎに食堂に集合して、感謝の言葉を唱えてから朝食を取ります。モンゴルのある北の方向に向かって頭を下げてから朝ごはんを食べていました。明徳義塾高校にはほかにも中国や韓国、オーストラリアなどから留学生が来ていたんですが、モンゴル語を話せる先生はいなくて、ひとつ年上の先輩に通訳してもらうこともありました。授業を受けたあと3時ごろから6時まで相撲部の練習がありました。そのあとちゃんこ部屋と呼ばれていた相撲部専用の食堂で夕食を取るんですが、モンゴルでは生魚を食べないとか違いがあって、最初はきつかったですね。一緒にモンゴルからやってきたダシ(現・朝赤龍)と夕食にはどんぶり飯5杯食べなければならないというノルマもありました。
悔しいからこそ、這い上がって強くなれる
モンゴルの家族には週に1度だけ電話をかけられるんですが、1000円のテレフォンカード1枚で2分くらいしか話せませんでしたから、毎週のように手紙を書いていました。「いいお相撲さんになって、お父さん、お母さんを楽にさせたげたいんだ」というようなことを書いていましたね。
最初は先輩と比べて体も小さくて、思い切りぶつかって行っても跳ね飛ばされるだけでした。でも、負けて悔しい、叩きのめされて悔しいからこそ、そこから這い上がって強くなれるんですね。監督から「もうやめろ」と言われるまで稽古を続けました。
明徳義塾高校は、練習だけでなく、礼儀や教養にもとても厳しい学校でしたが、そのおかげで人間ができてきて、一生懸命励むことができたんだと思います。そのままプロの世界に飛び込んでいたら、ここまで出世できていなかったかもしれませんね。日本に来て半年後には、全国高校新人選手権でベスト16に入り、2年生になった春には高知県高校相撲選手権で優勝。夏のインターハイでは3位に入ることができました。
最初は先輩と比べて体も小さくて、思い切りぶつかって行っても跳ね飛ばされるだけでした。でも、負けて悔しい、叩きのめされて悔しいからこそ、そこから這い上がって強くなれるんですね。監督から「もうやめろ」と言われるまで稽古を続けました。
明徳義塾高校は、練習だけでなく、礼儀や教養にもとても厳しい学校でしたが、そのおかげで人間ができてきて、一生懸命励むことができたんだと思います。そのままプロの世界に飛び込んでいたら、ここまで出世できていなかったかもしれませんね。日本に来て半年後には、全国高校新人選手権でベスト16に入り、2年生になった春には高知県高校相撲選手権で優勝。夏のインターハイでは3位に入ることができました。
朝青龍さんからのワンポイントアドバイス
基本を徹底的に繰り返す
モンゴル相撲と日本の相撲は土俵の有無など基本的な違いがありますが、浜村監督は「モンゴル相撲OK」と声をかけてくださいました。選手ひとりひとりの個性を否定から入らず、肯定してくださる監督の指導方法は私にはありがたかったです。もちろん柔軟性を養い、怪我を防ぐ意味もある股割り、四股(しこ)踏みは毎日欠かさずに行いました。こうした基本を徹底的に繰り返すことが一番大切だと思います。
当時、相撲部員は11人いたんですが、どうしても部員同士で申し合いを繰り返していると、相手の力加減が分かってしまい、稽古が単調になりがちです。練習に変化をつける工夫も必要ですね。
オフシーズンである冬場には、明徳坂と呼ばれていた学校内の坂道を駆け上がったり、近くにある青龍寺の階段を昇り降りして下半身を鍛えたりしました。ちなみに朝青龍というしこ名は、この寺の名前から吉田校長先生が付けてくださったものです。
当時、相撲部員は11人いたんですが、どうしても部員同士で申し合いを繰り返していると、相手の力加減が分かってしまい、稽古が単調になりがちです。練習に変化をつける工夫も必要ですね。
オフシーズンである冬場には、明徳坂と呼ばれていた学校内の坂道を駆け上がったり、近くにある青龍寺の階段を昇り降りして下半身を鍛えたりしました。ちなみに朝青龍というしこ名は、この寺の名前から吉田校長先生が付けてくださったものです。
絶対にこの一番は落とさない!
その後、18歳のときに若松部屋に入門して、プロの扉を開けたわけですが、このときには一生懸命稽古して、早く出世したい。横綱になりたいと親方に話していました。稽古場でもじっとしていることができなくて、申しあい稽古のあとも、四股やてっぽう(突き)の稽古を続けていました。「一生懸命」という言葉が座右の銘になりますね。プロ・アマを問わず、相撲は適当にやってしまうとほんの数秒で終わってしまう勝負の世界ですから、「絶対この一番は落とさない!」という気持ちを入れていくんです。それはまるで包丁を研いでいくような感じですね。「何のためにこれまでつらい稽古を続けてきたんだ!」と、自分自身に問いかけていくんです。
※この記事は2005年5月に取材したものです。プロフィール等は取材時点のものですので、ご了承ください。
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