PROFILE
1971年10月8日生まれ。和歌山県出身。小学校1年から野球を始め少年時代よりプロ野球選手への夢を育てた。そして和歌山県立星林高校から青山学院大学へ入学。高校時代は甲子園出場を果たせなかったが、大学時代には学生で唯一の日本代表としてバルセロナ五輪に出場。見事、銅メダルを獲得している。1994年ドラフト2位で青山学院大学から福岡ダイエーホークス(当時)に入団。1995年は本塁打王、97年には打点王のタイトルを獲得し、同時にベストナインにも選ばれている。その後2004年に巨人に移籍。2007年にホークスに復帰。一本足打法から放たれる豪打が持ち味の長距離砲と、球界でも屈指のリーダーシップの持ち主であり「ミスターホークス」と称される。小久保 裕紀選手の学生時代は・・・
「プロ野球選手になりたい!」という大きな夢があった
僕は母に女手ひとつで育てられたのですが、「甘くなってはいけない」という母の考えで、小学校1年の時に小学校の野球クラブに入らされました。最初はイヤで、よく泣いていましたが、2年生になる頃には、「プロ野球選手になりたい!」と思うようになっていました。中学・高校時代は正に野球一色の時代で、甲子園目指して燃えていました。高校時代の夏の大会で負けて、甲子園には行けなかったのですが、甲子園という同じ目標を持って仲間と共に頑張れたことは、かけがえのない思い出です。
僕は高校進学当時から、プロ野球に入団するためにはノンプロ(社会人野球)の方が近道だと思いましたので、卒業後はノンプロへ行こうと、就職コースを選んでいました。ところが、大学からスポーツ推薦の声がかかり、母の強い勧めもあって青山学院大学への進学を決めました。
大学は二部だったので、昼間練習をして夜に学校へ通うという生活が4年間続きました。寮に帰るのは夜の10時を過ぎるし、下級生の頃は帰ってから先輩の身の回りの雑用などで自分の時間なんてありませんでした。いつも夜中に合間をみては素振りをしていました。
でも、そんなハードな毎日でも頑張れたのは、やはり「プロに行くんだ!」という強い思いと、「大学は必ず卒業する」という母への誓いがあったからです。
僕は高校進学当時から、プロ野球に入団するためにはノンプロ(社会人野球)の方が近道だと思いましたので、卒業後はノンプロへ行こうと、就職コースを選んでいました。ところが、大学からスポーツ推薦の声がかかり、母の強い勧めもあって青山学院大学への進学を決めました。
大学は二部だったので、昼間練習をして夜に学校へ通うという生活が4年間続きました。寮に帰るのは夜の10時を過ぎるし、下級生の頃は帰ってから先輩の身の回りの雑用などで自分の時間なんてありませんでした。いつも夜中に合間をみては素振りをしていました。
でも、そんなハードな毎日でも頑張れたのは、やはり「プロに行くんだ!」という強い思いと、「大学は必ず卒業する」という母への誓いがあったからです。
念願のプロの世界へ
大学時代が、プロへの大きなステップに
大学では同じ野球部の中でも、プロを諦めて就職に向けて頑張っている学生もいましたが、僕はプロへの道を目指すということを迷わなかったので、邁進(まいしん)できました。大学の単位も3年までにとってしまいましたから、4年生の時は野球だけに打ち込めた感じです。それに大学時代は、僕にとってプロへの大きなステップになった時でもありました。
最初のステップは大学2年の秋に大学生だけの全日本に選ばれたことです。トップクラスの先輩方とプレーをしても劣っている感じはありませんでした。「これならプロに行けるぞ!きっとドラフトで指名されるだろう」と確信したのもこの時です。
そして次のステップは大学3年のバルセロナ五輪です。当時20名のメンバーで学生は僕だけでした。よくバルセロナ五輪の思い出は、と聞かれますが、銅メダルを取ったことが一番の思い出です。それ以外は宿泊先で先輩たちの洗濯を毎晩していたことくらいです(笑)。その当時はプロの選手じゃないからユニホーム以外は自分たちで洗濯するんですが、僕が一番年下だったので毎晩洗濯係でした。それで洗濯機が廻っている合間をみては素振りをしていました。バルセロナにまで行って、観光のひとつもしてないんです(笑)。
でも、このオリンピックでは自分をアピールできたと思います。そして、このオリンピックを機に「プロに行きたい」という目標から、「どのチームと契約できるか」という目標にランクが上がった気がします。
最初のステップは大学2年の秋に大学生だけの全日本に選ばれたことです。トップクラスの先輩方とプレーをしても劣っている感じはありませんでした。「これならプロに行けるぞ!きっとドラフトで指名されるだろう」と確信したのもこの時です。
そして次のステップは大学3年のバルセロナ五輪です。当時20名のメンバーで学生は僕だけでした。よくバルセロナ五輪の思い出は、と聞かれますが、銅メダルを取ったことが一番の思い出です。それ以外は宿泊先で先輩たちの洗濯を毎晩していたことくらいです(笑)。その当時はプロの選手じゃないからユニホーム以外は自分たちで洗濯するんですが、僕が一番年下だったので毎晩洗濯係でした。それで洗濯機が廻っている合間をみては素振りをしていました。バルセロナにまで行って、観光のひとつもしてないんです(笑)。
でも、このオリンピックでは自分をアピールできたと思います。そして、このオリンピックを機に「プロに行きたい」という目標から、「どのチームと契約できるか」という目標にランクが上がった気がします。
小久保 裕紀選手からのワンポイントアドバイス
反復練習で体に覚えさせる
トレーニングといえば、現在はウエイトが主のようですが、まずは自分の体や体重を使った練習が大事だと思います。例えば、
(1)ランニング・・・基礎体力を作るためには一番重要な練習です。
(2)腕立て伏せ、腹筋、スクワット・・・グラウンドでできる基礎トレーニングですが、自分の体重を使ってやることが重要です。
(3)ティーバッティング・・・フォームを作るにも有効な練習です。
これは僕が学生の頃に毎日欠かさずにしていた練習メニューの一部です。僕が思うには一番大事なことは地道な基礎練習を反復すること。いくら頭で考えても体が覚えていないことはできません。まずは体にいろんな動きを覚えさせること。その為に大事なのは反復練習なんです。その中でもランニングは日本人の骨格には重要なトレーニングだと考えています。野手や投手に関係なくランニングをおろそかにすることは、選手人生を短くします。今やっている基礎練習はすぐには結果が出ないと思いますが、続けることによって一年後には必ず驚くほどの成果が出ます。特に高校時代は体が大人に変わっていくときなので、基礎練習を怠らないようにしてください。
ちなみに僕の家には庭にティーバッティング場があったので、暇さえあれば練習をしていました。もちろんグラウンドでの練習も半端じゃないくらいやっていましたね。でも今、その成果が確実に身になっていることを実感しています。
(1)ランニング・・・基礎体力を作るためには一番重要な練習です。
(2)腕立て伏せ、腹筋、スクワット・・・グラウンドでできる基礎トレーニングですが、自分の体重を使ってやることが重要です。
(3)ティーバッティング・・・フォームを作るにも有効な練習です。
これは僕が学生の頃に毎日欠かさずにしていた練習メニューの一部です。僕が思うには一番大事なことは地道な基礎練習を反復すること。いくら頭で考えても体が覚えていないことはできません。まずは体にいろんな動きを覚えさせること。その為に大事なのは反復練習なんです。その中でもランニングは日本人の骨格には重要なトレーニングだと考えています。野手や投手に関係なくランニングをおろそかにすることは、選手人生を短くします。今やっている基礎練習はすぐには結果が出ないと思いますが、続けることによって一年後には必ず驚くほどの成果が出ます。特に高校時代は体が大人に変わっていくときなので、基礎練習を怠らないようにしてください。
ちなみに僕の家には庭にティーバッティング場があったので、暇さえあれば練習をしていました。もちろんグラウンドでの練習も半端じゃないくらいやっていましたね。でも今、その成果が確実に身になっていることを実感しています。
※この記事は2008年6月に取材したものです。プロフィール等は取材時点のものですので、ご了承ください。
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