PROFILE
1980年11月21日生まれ。大阪府出身。8歳から体操を始め、洛南高校時代は高校選抜優勝、インターハイ2連覇、全日本ジュニア優勝の3冠を達成し、順天堂大学入学。大学時代も全日本学生選手権3連覇や全日本選手権2連覇の他、NHK杯優勝、釜山アジア選手権の鉄棒で優勝などの数々の好成績を出し、2003年、順天堂大学大学院卒業と同時にセントラルスポーツへ入社。そして迎えた2004年アテネオリンピックでは日本のエースとして出場し、日本は28年ぶりとなる団体総合の金メダル、そして種目別の平行棒で銀メダルを獲得した。翌年には日本人選手で31年ぶりとなる世界選手権個人総合優勝を果たし、美しい体操を世界中に印象づけた。2008年の北京オリンピックでは団体総合銀メダルに貢献し、その後引退を表明。現在は母校である順天堂大学スポーツ健康科学部スポーツ科学科助教、そして日本オリンピック委員会専任コーチも務める。冨田 洋之さんの学生時代は・・・
逆上がりから僕の可能性を見いだしてくれた
体操を始めたのは8歳の時で、母に勧められてマック体操クラブに通い始めました。最初は週に1回くらいだったのですが、もともとスポーツが嫌いじゃなかったので、やり始めたら結構楽しくなりました。そのうち、コーチから「体操クラブの本店に通ってみないか」と言われて、週に5回くらい通うようになりました。後で聞いた話ですが、僕の逆上がりは他の子とは違っていて「ひょっとしたら…」と思われたそうです。いち早く可能性を見いだしてくれたのでしょうか(笑)。本店では上手な生徒ばかりでした。みんながやっていることを自分もやってみたいという好奇心がわいてきて、練習を重ねることで、ひとつの技ができると楽しさもより増していきました。中学入学後も体操部がなかったのでマック体操クラブで練習していました。ただ、全国中学校選手権など学校単位の大会に出るためには、体操競技部に所属していないと出場できないので、体操競技部を作ってもらったりもしました。
洛南高校では、それこそ365日が練習の毎日で、寮生活だし生活環境もガラリと変わりました。朝は寮の掃除から始まって、学校の食堂で朝食、朝練をして授業、授業が終わればすぐに練習で毎日夜の9時頃までやっていました。そして終われば寮に帰って、やっと晩ご飯です。もちろんプライベートな時間なんて無かったです。そんな毎日の合間に競技会などがあったりして、普通の高校生のような生活とはほど遠かったと思います。思い出といえば、やはり体操競技に関することばかりです。高校選抜やインターハイ、全日本ジュニア選手権で優勝できたことは忘れられない思い出ですが、一番印象に残っていることは、日本代表に選ばれたことです。オリンピックという大きな目標が近づいた瞬間でした。
洛南高校では、それこそ365日が練習の毎日で、寮生活だし生活環境もガラリと変わりました。朝は寮の掃除から始まって、学校の食堂で朝食、朝練をして授業、授業が終わればすぐに練習で毎日夜の9時頃までやっていました。そして終われば寮に帰って、やっと晩ご飯です。もちろんプライベートな時間なんて無かったです。そんな毎日の合間に競技会などがあったりして、普通の高校生のような生活とはほど遠かったと思います。思い出といえば、やはり体操競技に関することばかりです。高校選抜やインターハイ、全日本ジュニア選手権で優勝できたことは忘れられない思い出ですが、一番印象に残っていることは、日本代表に選ばれたことです。オリンピックという大きな目標が近づいた瞬間でした。
全日本から世界、そしてオリンピック出場
オリンピックを本当に意識したのは予選会から
既にマック体操クラブの頃から、オリンピックを間近に意識していました。周りにはオリンピック出場経験者がたくさんいたので、体操をやっている限りはそれが目標でした。でも本当の意味で意識し始めたのは順天堂大学に進学し、2000年のシドニーオリンピックの予選会に出たときです。出場している選手のオリンピック出場にかける意気込みも伝わってくるし、観客の注目度も違います。やはりオリンピックに出場するということは並大抵のことではないなと感じました。その頃は将来も体操競技を続けていこうと決めていたので、進学もそのひとつの過程でした。
大学に進学すると競技のルールもジュニアから一般に変わりますので、生活の部分でも練習を含めレベルが高くなりました。その分、刺激が増えたとも思いますし、いいライバルもどんどん増えていきました。でも、一番環境が変わったのはオリンピック出場が決まってからかもしれません。
2004年アテネと2008年北京という2度のオリンピックに出場することができましたが、僕の中でオリンピックは他の世界選手権と同等のものでした。自分の演技が変わることはないし、ただ一生懸命に演技するだけ。でも周りの環境や、マスコミの注目度は大きく変わりました。母校では壮行会を開いてもらったりして、いろんなところでも「頑張って来いよ」と声をかけていただき、自分自身の闘志も高まるのは確かです。そのうえオリンピック会場の雰囲気もやはりすごいものでした。会場のスケールや明るさ、観客の盛り上がりは選手としてもやはり意識してしまいます(笑)。その中で最高の演技ができ、メダルを手にできたことは大きな自信にもなりましたし、達成感も最高でした。
大学に進学すると競技のルールもジュニアから一般に変わりますので、生活の部分でも練習を含めレベルが高くなりました。その分、刺激が増えたとも思いますし、いいライバルもどんどん増えていきました。でも、一番環境が変わったのはオリンピック出場が決まってからかもしれません。
2004年アテネと2008年北京という2度のオリンピックに出場することができましたが、僕の中でオリンピックは他の世界選手権と同等のものでした。自分の演技が変わることはないし、ただ一生懸命に演技するだけ。でも周りの環境や、マスコミの注目度は大きく変わりました。母校では壮行会を開いてもらったりして、いろんなところでも「頑張って来いよ」と声をかけていただき、自分自身の闘志も高まるのは確かです。そのうえオリンピック会場の雰囲気もやはりすごいものでした。会場のスケールや明るさ、観客の盛り上がりは選手としてもやはり意識してしまいます(笑)。その中で最高の演技ができ、メダルを手にできたことは大きな自信にもなりましたし、達成感も最高でした。
冨田 洋之さんからのワンポイントアドバイス
高校生の間に、柔軟な体をつくる
僕は高校生の頃から自分の持ち味として「美しい体操」にこだわってきました。それは日本人の体操の長所でもあると感じています。例えばロシアやアメリカの選手はダイナミックで力強く、中国はすごく難しい技をこなす、曲芸的な器用さがある体操をします。では日本の持ち味はというと、技だけでなく繊細で緻密な動きからくる美しさだと思います。そういった日本の体操の素晴らしさを意識しながら、僕は練習していました。
(1)走る・・・これは練習に入る前に体を温める意味もあります。そして走ることで足腰も鍛えられるし、体のバランスを調えるにも有効的です。
(2)柔軟運動・・・体を柔らかくして、しなやかな動きをつくり出すために一番大事なのが柔軟運動です。開脚やブリッジ、そして肩、関節、足・手首を柔らかくする柔軟運動を大切にしてください。特に体を柔らかくするには高校生までの時期が有効です。
(3)倒立・・・どの技も倒立から入ることが多く、体操競技は倒立に始まり、倒立に終わると言ってもいいくらい重要なことです。バランスのとれたブレない倒立ができれば、次の動きにもスムーズにつなげることができます。
(4)6種目をこなす・・・ゆか、あん馬、つり輪、跳馬、鉄棒、平行棒といった6種目は、毎日必ず器具に触って練習することが大事です。練習種目がかたよると、苦手種目をつくることにもなります。
(5)シメを鍛える・・・体を一本の棒のようにすることをシメといいますが、技をぶれさせないためにも体を不動にする練習も大切です。平均台などの器具を使っても使わなくてもできる練習です。
基本的に僕が高校時代にやっていた練習メニューですが、他にも他人の演技を見て、真似してみる。真似から始まって自分のものにすることが大事な上達法でもあると思います。
(1)走る・・・これは練習に入る前に体を温める意味もあります。そして走ることで足腰も鍛えられるし、体のバランスを調えるにも有効的です。
(2)柔軟運動・・・体を柔らかくして、しなやかな動きをつくり出すために一番大事なのが柔軟運動です。開脚やブリッジ、そして肩、関節、足・手首を柔らかくする柔軟運動を大切にしてください。特に体を柔らかくするには高校生までの時期が有効です。
(3)倒立・・・どの技も倒立から入ることが多く、体操競技は倒立に始まり、倒立に終わると言ってもいいくらい重要なことです。バランスのとれたブレない倒立ができれば、次の動きにもスムーズにつなげることができます。
(4)6種目をこなす・・・ゆか、あん馬、つり輪、跳馬、鉄棒、平行棒といった6種目は、毎日必ず器具に触って練習することが大事です。練習種目がかたよると、苦手種目をつくることにもなります。
(5)シメを鍛える・・・体を一本の棒のようにすることをシメといいますが、技をぶれさせないためにも体を不動にする練習も大切です。平均台などの器具を使っても使わなくてもできる練習です。
基本的に僕が高校時代にやっていた練習メニューですが、他にも他人の演技を見て、真似してみる。真似から始まって自分のものにすることが大事な上達法でもあると思います。
※プロフィール等は2010年9月時点のものです。
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