アジアンブリッジ株式会社 代表取締役 阪根 嘉苗 さん| 私の幼少期~両親の教え~ - 日本の学校

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私の幼少期 ~両親の教え~
(お名前の五十音順です)
※プロフィール等は取材時点のものですので
ご了承ください。

アジアンブリッジ株式会社 代表取締役 阪根 嘉苗さん プロフィール

記者の目

努力をして一番になった成功体験と母からの相談事で得た考える力、今の私を支えています。

祖父母に教わったこと 書くこと、読むことは、小さい頃から徹底的に身に付けさせる

阪根 嘉苗さん

私は台湾で生まれました。家族は父、母、2つ年下の妹と祖父母です。日本統治時代の台湾で生まれ育った祖父母は日本に対してとても良い印象を持っていて、常々「孫にも日本の教育を受けさせたい」と言っていました。母が起業して間もない忙しい時期に、祖父母が日本に移住することになり、「おばあちゃん大好きだから一緒に行く」という軽い気持ちで両親と離れて日本に来ました。小学校低学年の時でした。そこから、祖父母と私の日本での生活が始まりました。

台湾で日本の教育を受けた祖父母は、日本語を一般の日本人のように話すというレベルではなく、今の若い日本人よりも美しい日本語を使い、考え方も行動も全て日本人のようでした。台湾では祖父母ともに学校の先生をしていました。祖父は英語、祖母は国語(当時は日本が台湾を統治していたため、国語=日本語でした)を教えていたため、特に祖母には言葉づかいや文章、文字をきれいに書くことなど、それはそれは厳しく教えられました。小学校の時はノートに文字を書くと「汚いから書き直し!」と言って祖母が消すのです。そして、もう1回全部書き直し。それが何回も繰り返されました。いい加減嫌になって、わぁ~っと泣いた涙と書いて消した跡でページがボロボロになったノートが何冊もありました。

祖父はいつもたくさんの本を読んで、熱心に語学を勉強し続ける優しい人でした。そんな祖父といる時は図書館へ行くことが多くて、私も一緒に本を読んでいました。祖父は歴史が大好きで、各国の歴史の本を読んでは話をしてくれました。そんな祖父からの影響を受け、とても読書が好きになりました。小学校の図書室の本もほとんど読んだと思います。あと読んでないのはどれだっけ?というくらいでした。私は推理小説が好きで、小学1年生の頃に小学校高学年~中学生が読むような本を読んでいました。書くこと、読むことなど、小さい時に身に付けておくべきことは、祖父母がしっかりと教えてくれました。


祖母に教わったこと 何でも一番を目指すことの大切さ

阪根 嘉苗さん

日本で初めて住んだのは福岡でした。小学校低学年だったからか、地域柄か、いじめられることは全然なかったんです。それが関東圏へ転校したとたんにいじめられるようになりました。転校先は当時外国人が珍しい地域だったので、台湾から来たというだけでとても目立っていました。さらに、両親と一緒に住んでいなくて祖父母と生活をしていたため、余計に珍しがられたんだと思います。いじめられていることなんて親には言えません。小学三年・四年で3回も転校をしたので、子どもながらに私も考えて、次の学校こそはいじめられないようにしようと頑張るわけです。転校で環境をリセットして新たなスタートを切るけれど、次のところでもやっぱりいじめられるので、祖母に「どうしたらいじめられなくなる?」と聞いてみたんです。その答えが「何でも一番を目指してみなさい」でした。「勉強はもちろん運動でもそろばんでも書道でも、何でも一番を目指して頑張ったら先生の見る目が変わる。先生の見る目が変わったら、みんなもあなたを見る目が変わるから」と教えてくれました。だからみんなが遊んでる間、一生懸命勉強しました。部活でもいじめられていたので体を鍛えたりもしました。結果に現れてくるようになると、祖母の言う通り本当にまわりの目が変わっていって「嘉苗ちゃん、すごい」と言われるようになり、いじめられなくなりました。成績が良くなると今度はクラス委員や生徒会役員に指名されるようになって、それでまた見る目が変わって・・・どんどん良い循環になっていったのです。子どもながらに、一番になるのは大切だということを身をもって知りました。二番ではなく一番。そして、一番は努力で掴めることも。祖母の「一番を目指してみなさい」という言葉から、努力をして一番になることができて、そして周りからの見る目が変わる。そんな成功体験を小学生の時に経験できた事は、その後の人生の選択に大きな影響を及ぼしています。


母から学んだこと 「どう思う?」と考えを引き出し、「本当にそう?」と深く思考させる

母は30代で台湾で日本料理店をはじめました。父は共同経営者のような立場でしたが、やはり一家の大黒柱のような存在は母でした。席数250席、そのほとんどが個室で、政治家や地元のお医者さんなどがよく来店されるようなお店を切り盛りしていました。台湾と日本で離れて暮らしていたので会えるのは年に数日ですが、会うといろいろな話をしました。その中でも印象に強く残っている話はお金の話です。

会社には借金があって、借りたお金には利子が付いて、お父さんとお母さんのお給料はこれくらいで、あなたの学費は…など、小学校低学年の子どもにする話とは思えない内容です。例えば、一緒にラーメン店に入ると「このお店、儲かってると思う?」と聞いてきます。幼いながらに少し考えて「お客さんもいっぱいいるし、儲かってると思う」と返事をすると、お客さんの人数とラーメン1杯の値段、従業員の人数など細かく見て考えるように促されて気づくのです。「あれーっ、あんまり儲かってないね」「大きい声で言っちゃダメ!」とか言い合って。子どもにはお金の話はよくないと日本では言われますが、母はよくお金の話をしましたね。そのおかげでお金の大切さを学びました。実際、今の私はお金に厳しいと自負しています。使うところと使わないところの見極めを会社経営に活かしているつもりです。そういう意味では(母が意図したものだったかは分かりませんが)小さい時にお金の教育をされて良かったと思います。

母との会話でもう一つ思い出すのは、相談事でした。なぜか母は、小学生の私に会社で困っていることを相談するんです。「お母さんの会社で働いている人がお金をこっそりネコババする。買ってきた食材の割にはお金が減っているの。困っているの。どうしたらいいと思う?」とか「天気が悪いとお客さんが少ないからどうしたらいい?」などと相談してきます。母との会話で「どう思う?」とよく聞かれました。答えると「本当にそう?」と、ちゃんと考えるように促されます。母が困ってる顔を見て、子どもながらにものすごく考えました。今思えばアイデアを出す訓練のようにいろいろな事に対して意見を求められました。「お母さんを助けたい、私がもっと経営の勉強をしよう」という気持ちが芽生えたのは、困っている事をよく聞いていた小学生の頃だったと思います。


母から学んだこと 気恥ずかしくなるくらい、褒める

阪根 嘉苗さん

前述のお金の話もそうですが、母が日本人の感覚と違うなと感じるのは、人前で褒めることです。人が集まっている時こそ、隣に私がいるのに娘を褒め称えます。「私の娘、この雑誌に載ってるのよ~」とか「起業して頑張ってるの」とか。“謙遜” という言葉はどこにもない褒め方をします。家庭訪問に来た先生にも「うちの子は出来た子でね~」と始まります。恥ずかしいからやめてと思いつつ、母に褒められて内心は嬉しかったです。また褒められるように頑張ろうと思いますから。また、母から意見を求められて自分の意見を言うと、「なるほどね」「すごいね」「それは思いつかなかった」と、とにかく褒められました。

叱られることも、もちろんありました。でも母には母なりの鉄則があって、人前では絶対に叱らないのです。理由は中華圏の人が大事にする“メンツ” です。メンツは自分だけでなく、家族のメンツも大事にしないといけない、と言っていたのを覚えています。だから外では絶対に家族を悪く言ってはいけないよと教わりました。

日本的な教育をする祖父母と中華的な接し方をする両親。全く違う対照的な文化の狭間で育った私が、日本と台湾の架け橋になりたいと考えるようになったのは自然な事だったのかもしれません。

祖母の教えから学んだこと 一番になりたいと思ったら、人一倍努力する

中学に入学した時、ハンドボール部に入部しました。相変わらず一番になる事にこだわっていた私は、誰もが初心者としてスタートできて、競技人口が少ない集団球技をしようと思い、当時強かったハンドボール部に入部しました。これなら県で一番になれる!という判断でした。強豪校だったこともあり、早朝と放課後は年中休みなく練習を繰り返す、とてつもなく厳しい部活でした。部員数も多くてレギュラーになれるのは一握りですから、いかにレギュラーになるかをいつも考えながら、みんなの倍、練習しました。

小学生の時に体感した“一番は努力で取れる” は、大学院卒業後に入社したリクルートエイブリック(現・リクルートキャリア)でも実践しました。転職エージェントサービスを手掛ける会社ですが、同期は高学歴揃いで、入社した時点で一歩差が付いているわけです。ならば同期たちよりも時間をかけて克服しようと、かなり朝早くから出勤しました。当時はネットでパパッと調べられる時代ではなかったので、届いた朝刊を全てチェックしてアポ入れできそうな企業をリストアップしました。毎日200300社くらいあったと思います。みんなは9時に出社してからリストづくりを始めますが、私はそのときすでに出来ているので、アポ入れの数を多くこなすことができ、新規開拓の数字は断トツでした。

祖母の「一番を目指しなさい」から始まった成功体験が、努力するモチベーションのベースとなり、今の自分を支えています。


仕事について

アジアンブリッジ株式会社

アジアンブリッジは「アジアで成長する企業を増やす」という経営理念のもと、日本企業の商品をインターネット上で定期購入の手法で販売して、アジア各国に届ける支援を行う企業です。現在は、台湾におけるインターネット通販の事業計画から販売スタート後の運用まで一括してサポートしています。

台湾に進出したい日本企業にとっては、現地で会社を設立する事なく、アジアンブリッジが海外支社のような立場となって販売を行うため、初期費用もマンパワーも最小でスタートが可能です。また、日本とは異なる現地の法律や貿易規制、薬事規制などに詳しいため、安心してお任せいただけます。

クラウド型現地法人通販システム「bamb(バンブ)」

アジアに拠点が無い企業様にとっては日本からインターネット販売で売り上げをあげることのハードルは高く、物流面、決済面などで様々な課題がありました。そういった背景からその課題を解決するべく「bamb(バンブ)」というシステムを開発しました。このシステムは当該国の在庫管理と会計処理が一元管理できるため、日本にいながらにして海外に自社の現地拠点があるように、現地に在庫を置いて通販を展開することが可能になりました。

また、現地の購入者にお届けするための配送や在庫管理、決済方法など、これまで自社で行わないといけなかった作業をサポートしたり代行することで、アジアへの進出へのハードルとリスクを大幅に下げる事を実現いたしました。

2018年11月掲載

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