私の両親は明治生まれで、かなり歳をとってから私が生まれましたので、私が中学生の頃には既に60歳に達していました。父は私が大学を出てから結核になったり、中国や東南アジアの方にも戦争に行き、生死の分かれ目を間近で体験していました。だからでしょうか、普通の家庭と比べると父親の存在というのは凄く威厳がありましたね。父は非常に寡黙な人でしたし、自分がどういうところでどういう具合にいても、自分なりの価値観と正義感を貫く人でした。
当時、父は周辺では一番大きな病院の開業医をしており、月に2回しか休みがないような忙しい毎日でした。物資のない時代の農漁村でしたから、赤痢などの感染症患者や、船と岩盤に挟まれて足がつぶれたけが人など、病院に来るあらゆる患者さんを診ていました。施設も今のようなクリーンなものではなく、手術も外来で行っており、私はいつもそばで見ていましたので、 将来私が医師として出血や大怪我などを目にすることへのストレス耐性はここで育てられたと思います。
また、父はとても頭の良い人だったのですが、幼稚園や小学生の子どもにも難しい言葉、それこそ漢文のような言葉を使っていました。よく聞かされたのは「艱難辛苦汝を玉にす(かんなんしんくなんじをたまにす)。」苦労というものがお前を磨く。だから苦労をしなさい、楽をしてはいけませんよ、というのが基本的な教えでした。
母は今で言うと肝っ玉の太い人でした。肝っ玉が太いだけではなく、非常に厳しい人でした。母にいつも言われていたことは「男は腹を据えてなくてはいけない」ということです。ちょっとしたことでオタオタしたり、どうしようどうしようと悩んだり動揺してはいけない。常に冷静に物事を見なさい、そして決断しなさい、決断したらクヨクヨせずに進みなさいと何度も言われました。
私は子どもの頃、とんでもない落ちこぼれでした。勉強はしなかったですし、遅刻も常習犯でした。 なんで勉強しないといけないのかという疑問が、常に漠然と自分の中にありました。今でもリアルに覚えているのですが、中学2年生の秋頃、私の成績のことで担任の先生に言われたと言って母は私をそれは厳しく怒りました。「今の成績だと普通科の高校に行けないよ。どうするの」と。 これはひょっとしたら自分は絶体絶命かもしれない。高校に行けないかもしれないと切実に思いました。
父はそういう時でも厳しい目では見てはいるのですが、やっぱり戦争を経験してきたからか、見放さないんです。おそらく、子どもがそんな状況だと普通の親は「うちの子はこんなもんだろう」と思って諦めてしまうんでしょうけれど、自分はそこで見放されなかったということが非常に大きかったと思います。その時に父がよく言っていたのは「どんなときでも遅いと言うことはない。」ということでした。つまりは勉強しなさいということで、中学2年の秋に少しずつ勉強を始めました。自分の興味のあることから少しずつ始めてみると、意外とおもしろさを発見できる。そうして、成績が自分でも驚くほど伸びていきました。多分それまで勉強していなかったからでしょう。
母はとても厳しい人でしたから、落ちこぼれで勉強嫌いの私に対して、どうして勉強しないのかと非常に厳しく叱っていました。一方で、私が興味が持ったことにはどんどんサポートしてくれた一面もあります。
私は小学校の頃から本がとても好きでした。本を読んでいる時が一番安らぎ、いろんな物語から化学式が書かれているようなものまで片っ端から読んでいました。小学校の図書館の本はほとんど読んでしまったような気がします。母は文学全集であるとかノンフィクション全集だとか、学校の勉強にすぐに役には立たないような本でも買ってくれました。毎月全集ものが3冊ほどは必ず届き、隔月誌も2冊ほどは届いていて、暇なので読んでいました。おもしろいモノもあるしおもしろくないモノもありましたが、文学でも難しいモノをずっと読んでいた覚えがあります。本は母より「読みなさい」と言って渡されるのではなく、例えば、漱石の全集などは「吾輩は猫であるという話はおもしろいよ」と聞かされただけで、私の部屋の書棚に置いてありました。昔は部屋にテレビもゲームも無かった時代ですから、夜、暇になると、部屋に置いてある本を読みふけっていました。子どもというものは、暇な時間があってそこに本があれば、本を手に取るものだと思います。
私は子どもの頃、貧しい農漁村の中で開業医の息子として育ったため、同級生と生活が合わず、いじめのようなこともありました。高校を卒業するまでは、内気で友人の少ない生活をしていました。そんな私が最初に変わることができたのは大学に入ってからでした。私が大学に入った頃は大学紛争の時代です。入学して最初の試験の頃には大学封鎖になっており、テストも授業も無いことを良いことに、毎晩同級生の下宿に10人くらいで集まってはいろんなことを語り合いました。自分の内面を語り合うような濃い人間関係は初めての経験で、毎日がとても新鮮だったことを覚えています。
次の転換期は30代半ばで、アメリカに渡った時だと思います。ある研究室にお世話になっていたのですが、たくさんの外国人とともに学んでいました。母国語が英語ではない私が英語で意思疎通をしようとすると、語彙が少ないためにかなりストレートな物言いになります。自分の要求をストレートに表現し、相手に伝える力。内気だった私は、日本語の馴れ合いの中ではこの交渉力をなかなか培うことができませんでしたが、このアメリカでの異なる環境で習得することができました。
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