父は船会社で働くサラリーマンでした。平日は帰宅が遅く、ほとんど会えませんでした。 仕事も一生懸命な父でしたが、休みの日は多趣味な人で、よく釣りに連れて行ってもらいました。前日から泊まり込みで釣りをすることもありましたね。宿の蚊帳(かや)の中に放した蛍がとてもキレイだったことを覚えています。私の父親はさまざまなことを私に経験させてくれたと思います。相撲を見ることが好きだった父は、私を大阪の本場所によく連れて行きました。また、仕事柄、港まで船をよく見に行きました。
相撲の本場所はとにかく臨場感が違います。力士の息づかいを感じ、闘った後の紅潮した肌を間近で見てドキドキしました。そのような体験から、将来は自分も相撲取りになりたいと思いました。父と船を見に行った時は、大きな船や、船内の地下のエンジンに圧倒され、船乗りになりたいと思うようになりました。
その後、何より私の心を熱くさせたものは、中学生の頃に見た鍛造工場での金属でした。熱せられた真っ赤な金属が、またカタチを変えて鎖(くさり)になったり、大きな碇(いかり)になったりすることが面白くて仕方がありませんでした。その工程にただただ見とれていました。今になって思えば、船を見た時の感動も、おそらく船が金属の塊だったからだと思いますね。
そのような経験が、私を金属材料工学を学ぶ道に進めさせ、今の私がいるのだと思います。
いろいろな経験をさせてくれた父には本当に感謝しています。子ども時代に親がいろいろな体験をその子にさせることは、その子の人生に非常に大きく影響するということを、私は身をもって体験しました。もちろん普通に動物園などにも連れて行ってもらいましたよ。私が動物に特別感動する子であれば、きっとその道に進んだことと思います。仕事も一生懸命、かつ子どもとの時間も大切にした父には、感謝するとともに、尊敬の念を持っていました。
また、母もそのような父を立て、一家の大黒柱として感謝していました。そういう心は、子どもにはちゃんと伝わるんですね。
父は昔から、しつけについてはほとんど何も言いませんでした。進路についても、大学に行けとも、行くなとも言いませんでした。ただ一度だけ、私が大学の修士からドクター課程に進む時、電話で私にこう言ったんです。“自分で決めた以上は最後までやり通せ”と。普段何も言わない父の言葉だからこそ、深く私の心に刻まれました。
幼稚園にあがる前、大きい石を自分の足の上に落としてしまい、親指がつぶれ大量の血を出す大怪我をしたんです。その時母親は、遠い医者まで私をおぶって長い道のりを何度も歩いてくれました。その背中のあたたかさは今でも覚えています。
母親が畑仕事をしており、畑仕事はよく手伝いました。草取りはきつい作業で、嫌だったことを覚えています。母の畑では本当にいろいろなものが収穫でき、畑や農業に関する知識というものは自然と身に付についていきました。
私は、自然豊かな地で育ちました。道なき道を駆け回り、小川でフナを捕り、川に飛び込む。夏休みの登校日を忘れるほど遊んでいましたね。自然の中での遊びの中から、「何故?」と思うことがたくさんありました。
ある時、水の桶に捕まえたウナギを入れておいたんです。そうするとウナギは道路のほうではなく、必ず水のある方向へ逃げる。何故なんだろう?と子ども心に大変不思議でした。あと、大きな水車を見ていて、どうして水が上に行くのか、とても不思議でした。
現代のように遊ぶ道具が揃っているわけではありませんから、自分たちで遊び道具からつくって、遊びの中でいろいろ工夫しました。しかし、時に自然は危険とも隣り合わせです。失敗からもまた、さまざまなことを学びました。
漆の木の皮を剥いで刀にして遊んでいたら身体中がかぶれて大変なことになりました。あと、ザリガニに指を挟まれたり、大きい穴に落ちたり。その中でも蛇だけは絶対に危険だと、子どもながら注意していました。自然の楽しさ、恐ろしさを肌で学んだ子ども時代でしたね。
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是非、好奇心旺盛な子ども時代に、いろいろな経験をさせてあげてください。その子その子で心に響くものが違います。感ずるものがあれば必ずその子の記憶に残り、後に進路の岐路に立たされた時、選択肢として自ずと出てくることでしょう。
また、言葉での教育は記憶に残りません。親は子どもに一生懸命働く姿、一生懸命何かを頑張っている姿を直接、または間接的にでも見せることが大事だと私は思います。子どもはそこから必ず何かを学ぶはずです。
親の影響を多大に受けて子どもは育ち、人生が良くも悪くも決まるということを、ご理解いただきたいと切に願います。
東北大学 総長
井上 明久
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