PROFILE
1990年4月19日生まれ。奈良県橿原市出身。6歳からバドミントンを始め、中学から親元を離れて聖ウルスラ学院英智中学校へ入学。高校時代に1学年後輩の松友美佐紀選手とダブルスのペアを組んだ。2009年に日本ユニシス(現・BIPROGY)へ入社した後は、着実に実績を積み上げ、全英オープン優勝、BWFスーパーシリーズファイナルズ優勝。2016年のリオデジャネイロオリンピックでは日本のバドミントン史上初となるオリンピックでの金メダルを獲得した。2020年に現役を引退後は、藤井瑞希氏と「M-BASEバドミントンアカデミー」を立ち上げて小学生へ指導を行うなど、後進の育成に取り組んでいる。また、一児の母として子育てにも奮闘中。髙橋礼華さんの学生時代は・・・
「強くなるため」に中学で親元を離れ、県外の強豪校へ進学
小学生でほぼ負けなしだった私は、より強い選手がいるところを目指して、地元の奈良県を離れて宮城県の聖ウルスラ学院英智中学校への進学を決めました。学校は中高一貫だったのですが、私が入学する年に高校3年生になる憧れの先輩がいて、その先輩と1年でも同じ場所で練習したいと思ったことも進学の決め手でした。
しかし、入学してすぐに自分の考えの甘さを思い知らされました。というのも、寮生活だったので、掃除や洗濯など、勉強や練習以外にもやるべきことがたくさんあり、中学生で親元を離れて生活することの大変さを実感したからです。さらに中学1年生の冬にヘルニアになって競技ができなくなった時には、「強くなるためにここに来たのに何をしているんだろう」と家に帰りたくなりました。しばらく落ち込んだのですが、ある時ふと「下を向いていても怪我が治るわけじゃないし、ネガティブになるのはやめよう」と思う瞬間が来たんです。それからは仲間の練習を見て怪我が治った時の自分のプレーをシミュレーションするなど、ポジティブに考えて行動できるようになりました。中学1年生にして、悔しい思いをプラスに変えられた経験は、その後の自分を強くしたと思います。そして、最初は慣れないことが多かった寮生活も、優しい先輩方やバドミントン以外の競技に取り組む仲間との出会いもあり、次第に楽しいものになっていきました。
高校生活で印象深いのは、3年生で出場したインターハイです。優勝候補と期待され、私はキャプテンも務めていたのですが、現地入り後の練習で足首を捻り、足を引きずらないと歩けないほど痛めてしまいました。団体戦への出場は断念したものの、当時からペアを組んでいた一年後輩の松友美佐紀選手とのダブルスには絶対出場したいと思っていました。しかし試合前、先生が松友選手に「髙橋を棄権させる」と話すのが聞こえてきて……。「このまま終わりたくない」と、先生の前でフットワークをしたりシャトルを打ったりして、必死で無言のアピールをしました。先生もその姿を見て私の気持ちを察してくれ、痛み止めを飲み、足をガチガチに固定した状態でなんとか試合に出られることになりました。松友選手には「ちょっと迷惑かけるかもしれないけどごめん」と伝えたのですが、「いつも通りやりますね」と変にフォローしようとせず試合に臨んでくれたのでありがたかったです。試合では当然、怪我をしている私が狙われましたが、その時考えていたのは、優勝することよりも「とりあえず最後まで戦いたい」ということだけでした。それが逆にプレッシャーにならずにすんだのか力まずプレーできて、結果的には優勝することができたんです。今振り返ってもよくあんな状態で試合に出たなと思いますが、諦めなくて本当に良かったとも思います。松友選手とは学生時代から13年間ペアを組みましたが、この大会が無ければこれほど長くペアを続けていなかったかもしれません。そのくらい、二人にとっても大切な大会になりました。
設立して間もない実業団チームで活躍
勝利への強い思いが、歴史的快挙につながった
実業団に入ってから特に印象に残っているのは、初めて出場した全日本実業団の団体戦です。私はダブルスで出場して結果は準優勝だったのですが、その時に先輩から「高卒1年目とは思えないくらい堂々としているね」と声を掛けてもらいました。実業団には学生時代と違って全日本の大会やオリンピックに出場するような選手がたくさんいます。その中で私が1年目から結果を残せたのは、当時の私には背負うものが何もなく、のびのびとプレーできたからです。それでもこの言葉はとても嬉しく、大きな自信につながりました。
その後、同じ実業団に入ってきた松友選手とペアを組み、海外のメダリストと戦う機会も出てきました。最初は手も足も出ないほどのレベル差に衝撃を受けましたが、強い相手と戦えることはとても楽しかったです。その一方で「いつかは勝たなければならない」とも思っていて、次第にオリンピックで金メダルを獲ることが二人の大きな目標となっていきました。目標に向かって着実にステップアップしていきましたが、世界ランキング1位で臨んだリオデジャネイロオリンピック前年の世界選手権ではメダルを獲得することができず、「このままではダメだ」と、松友選手とともに負けた要因や勝つためにすべきことを徹底的に話し合い、他の選手の試合なども見て研究を重ねました。二人とも、とにかく世界選手権での負けをオリンピックの勝ちにつなげることだけを考えていましたね。その結果、リオデジャネイロオリンピックで念願の金メダルを獲得することができました。当時は優勝の実感があまりなく不思議な気持ちでしたが、松友選手とここまで頑張ってこられて本当に良かったと思えました。私たちはプレーの相性が良かっただけでなく、「勝利へのこだわりの強さ」も同じでした。だからこそ、大きな目標に向かって二人が同じ歩幅で進み続けることができたのだと思います。
2020年に現役を引退してからは、ジュニア世代に教えることが活動の中心となっています。子どもたちがきちんと理解するまで教えることはとても難しいですが、現役時代とは違った面白さも感じています。今後も、まだまだ未完成で、可能性にあふれた子どもたちに、私が競技を通して経験してきたことを伝えていきたいです。
髙橋礼華さんからのワンポイントアドバイス
強い選手になるには技術面以外でのトレーニングも重要
(1)走り込み…私が自信をつけるために学生時代に行っていたのは、とにかく走り込むことです。具体的には、20分走った後に二重跳びを30回×5セット行っていました。とはいえメニューはどんなものでも良くて、自分に足りないものを鍛えるトレーニングをするのが一番です。私自身は体力やメンタル面に課題を感じていましたが、ひたすら走り込みをしたことで、「あれだけやったから大丈夫」と強い気持ちで試合に臨むことができるようになりました。
(2)イメージトレーニング…試合前によくやっていたのが、自分の憧れの選手や好きな選手のプレー動画を見ること。たとえば動画を見て「この選手の前衛の入り方、良いな」と思ったら、実際にプレーを真似してみることもありました。またプレーだけでなく、集中しているかっこいい表情などもチェックしていました。試合前に気分の上がるプレー動画を見ることで、自分自身もその選手になったような気持ちでプレーができるのではないかと思います。
こうした個人で行うトレーニングに加えて、バドミントンのダブルスで強くなるにはパートナーとのコミュニケーションもとても重要です。私が松友選手とペアを組んでいた時に意識していたのは、自分の考えをはっきりと伝えること。ダブルスは一人でできる種目ではないので、お互いを理解し合うことが不可欠です。そのため、プレーや戦い方に関して、たとえ相手が傷つく可能性があっても伝えるべきことは伝え、逆に相手から言われたことも受け止めようと心掛けていました。時に言い合いになることがあっても、チームとして二人で強くなるためには、日々しっかりとコミュニケーションを取り、お互いが自分の考えを言い合える関係性を築いていくことが大切だと思います。
※掲載内容は2024年4月の取材時のものです。
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