PROFILE
1992年3月11日生まれ。愛知県岡崎市出身。中学時代から陸上部に所属し、中学2年生のときに棒高跳びを始める。中学時代のベストは2m80cmと、全日本中学校陸上競技選手権大会の参加標準記録に1m以上およばなかったものの、陸上競技の強豪校である岡崎城西高等学校への進学を境に急激に成長。高校3年生のときにはインターハイで6位に入賞した。その後、中京大学に進学し、学生記録の樹立やロンドンオリンピック出場を果たす。さらに大学4年生のときに出場した世界陸上モスクワ大会では、日本勢過去最高の6位入賞という快挙を成し遂げた。大学卒業後は地元のトヨタ自動車に入社し、実業団選手として活躍。2016年の国際室内競技会では5m77cmを跳び、日本男子の室内記録を更新した。2018年には日本選手権で優勝。同年に行われたアジア競技大会では大会記録を更新するとともに日本勢12年ぶりの金メダルを獲得。現在はフランスに拠点を移し、棒高跳びに取り組んでいる。自己ベストは5m77cm。山本 聖途選手の学生時代は・・・
ずる休みをきっかけにスタートした棒高跳び人生
元陸上選手の両親の影響か、小さいころから走ることが大好きで、小学校の授業が終わるとよく兄2人と一緒に走り回っていました。ただ、当時本腰を入れて取り組んでいたのはサッカーで、陸上競技はやっていませんでした。また、母がつけてくれた「聖途」という名前には「聖火台に向かって一途に頑張れ」という意味が込められているのですが、小学生のときは聖火台がオリンピックを指していることすら知らず、当然オリンピック選手になりたいという想いも全くありませんでした。
転機が訪れたのは中学生のときです。僕が進学した中学校にはサッカー部がなく、走ることが好きという理由で陸上部に入部しました。長距離走選手として楽しく練習に取り組み始めたのですが、段々と同じ景色を延々と見ながら走ることに飽きてしまい、中学2年生の夏に岡崎城西高校で行われた大会で遂にレースをさぼってしまいました。そしてレースが始まっているのにも関わらずプレハブの中で涼んでいたら、岡崎城西高校の陸上部の先生が入ってきて「どうしたんだ?」と声を掛けられたのです。長距離走のレースに出なかったことを伝えたところ、見かねた先生から「じゃあ明日から棒高跳びをやりなさい」と言われました。僕の中学校の陸上部には棒高跳びがなかったのでどんな競技なのかも知らなかったのですが、先生の圧におされ、なぜか了承してしまいました。
大会翌日、岡崎城西高校の陸上部の練習に行き、はじめて棒高跳びというものを見ました。高校生の先輩たちが5m近いバーを越える姿に「うわ!かっこいい」と一瞬で憧れを抱き、そのまま棒高跳びにのめり込むように。放課後は自転車で岡崎城西高校に行き、高校生に混ざって練習をしました。棒高跳びは、まず長さ5m前後の ポールを持った状態で助走をし、踏み切る直前にポールを地面に突き刺します。すると助走の勢いでポールが曲がるので、垂直に戻るときの反発力を活かしてバーを越える競技です。はじめはポールを持って走ることすらままならず、ポールを曲げられるようになるまでに1年ほどかかりました。それでも毎日楽しくて、はじめて大会でバーを越えたときは高揚感でいっぱいになりました。2m50cmという決してよい記録ではなかったのですが、本当にうれしかったです。
そのまま岡崎城西高校に進学し、陸上部に入りました。どうすればもっと高く飛べるか、もっとよい跳躍ができるかを自分で考えさせてくれる先生だったので、自分なりにトライアンドエラーを繰り返しながら、真剣に棒高跳びに取り組みました。すると高校2年生で5m00cmを飛べるようになり、高校3年生のときにはインターハイ6位に入るまでに成長することができました。中学2年生のときに感じた興奮や棒高跳びが好きという気持ちは何年経っても消えることなく、学生時代はとにかく毎日が楽しくて仕方がなかったですね。
転機が訪れたのは中学生のときです。僕が進学した中学校にはサッカー部がなく、走ることが好きという理由で陸上部に入部しました。長距離走選手として楽しく練習に取り組み始めたのですが、段々と同じ景色を延々と見ながら走ることに飽きてしまい、中学2年生の夏に岡崎城西高校で行われた大会で遂にレースをさぼってしまいました。そしてレースが始まっているのにも関わらずプレハブの中で涼んでいたら、岡崎城西高校の陸上部の先生が入ってきて「どうしたんだ?」と声を掛けられたのです。長距離走のレースに出なかったことを伝えたところ、見かねた先生から「じゃあ明日から棒高跳びをやりなさい」と言われました。僕の中学校の陸上部には棒高跳びがなかったのでどんな競技なのかも知らなかったのですが、先生の圧におされ、なぜか了承してしまいました。
大会翌日、岡崎城西高校の陸上部の練習に行き、はじめて棒高跳びというものを見ました。高校生の先輩たちが5m近いバーを越える姿に「うわ!かっこいい」と一瞬で憧れを抱き、そのまま棒高跳びにのめり込むように。放課後は自転車で岡崎城西高校に行き、高校生に混ざって練習をしました。棒高跳びは、まず長さ5m前後の ポールを持った状態で助走をし、踏み切る直前にポールを地面に突き刺します。すると助走の勢いでポールが曲がるので、垂直に戻るときの反発力を活かしてバーを越える競技です。はじめはポールを持って走ることすらままならず、ポールを曲げられるようになるまでに1年ほどかかりました。それでも毎日楽しくて、はじめて大会でバーを越えたときは高揚感でいっぱいになりました。2m50cmという決してよい記録ではなかったのですが、本当にうれしかったです。
そのまま岡崎城西高校に進学し、陸上部に入りました。どうすればもっと高く飛べるか、もっとよい跳躍ができるかを自分で考えさせてくれる先生だったので、自分なりにトライアンドエラーを繰り返しながら、真剣に棒高跳びに取り組みました。すると高校2年生で5m00cmを飛べるようになり、高校3年生のときにはインターハイ6位に入るまでに成長することができました。中学2年生のときに感じた興奮や棒高跳びが好きという気持ちは何年経っても消えることなく、学生時代はとにかく毎日が楽しくて仕方がなかったですね。
ロンドン、リオ、東京…三度にわたるオリンピック出場
日本以外も「ホーム」にすることで、自分らしい跳躍ができるように
高校卒業後は地元の中京大学へと進みました。大学3年生のときに日本学生記録の5m60cmを飛び、オリンピックの参加標準記録を突破したのですが、これまで「棒高跳びが好き」という気持ちだけで練習や大会に取り組んできたので、オリンピックが視野に入るときが来るとは思ってもみませんでした。
その後、出場権を獲得し、ロンドンオリンピックに出場しました。しかし初の世界大会だったため時差や言葉、食事のちがいに戸惑い、挙句の果てにはメートル表記ではなくフィート表記のメジャーにパニックになり、助走距離を測ることができないまま本番を迎えてしまいました。平常ではないメンタルと勘で決めた助走距離では本来の跳躍ができるわけもなく、普段であれば余裕の5m35㎝を3回失敗し、記録なしで終了。人生ではじめて棒高跳びが楽しくないと感じました。
しかし切り替えが早いのが僕の強みです。高校時代から自己分析を繰り返してきたからこそ、ロンドンオリンピックでの悔しさも原因さえ克服すればよいと考えました。海外のアウェー感が自分らしい跳躍をできなかった最大の要因のため、まずは海外に慣れるためにスウェーデンで行われた日本陸上競技連盟の合宿に参加しました。その後もアメリカやフランスなど、大学時代は冬休み期間中、大学を卒業しトヨタ自動車に所属してからは1年の半分以上を海外で過ごしました。するとだんだんどの国で行われる大会もホームのように感じられるようになっていきました。
そして社会人3年目のとき、二度目のオリンピックとなるリオ大会に出場しました。海外の環境にはすっかり慣れていたうえ、当日の調子も万全。4年前の雪辱を果たすにはこの上ないコンディションでした。しかしいざフィールドに立ったら4年前のことが一気にフラッシュバックし、またもや頭が真っ白に……。二大会続けて記録なしという結果に終わりました。今回ばかりは自分でもどうしたらいいのか分からず、その日のうちにリオ大会に帯同していた小林コーチ に「もうやめます」と伝えました。すると、当時はまだ僕の専属コーチではなかったにも関わらず 「これで満足しているのか?」「お前のレベルを指導できるのは俺しかない」と言ってくれたんです。高校時代からずっと「自分で考えること」を指導方針とする先生方にお世話になっていたため、二人三脚で歩む未来を予感させるその言葉に、一気に心を動かされました。そして、もう少しだけ頑張ってみようと決意しました。
その後、小林コーチの指導の下、新たな気持ちで棒高跳びに向き合いました。2018年のアジア大会では5m70cmを跳んで大会記録を更新し、日本勢12年ぶりとなる金メダルを獲得。その勢いで突き進み、2021年に行われた東京オリンピックでは5m30cmを跳ぶことができました。二度の記録なしでトラウマになっていたオリンピックのバーをはじめて越えたときは、安堵と喜びの気持ちでいっぱいになりました。高さだけで考えたら決して満足のいく結果ではなかったですが、僕の競技人生においては大きな価値のある跳躍となりました。
その後、出場権を獲得し、ロンドンオリンピックに出場しました。しかし初の世界大会だったため時差や言葉、食事のちがいに戸惑い、挙句の果てにはメートル表記ではなくフィート表記のメジャーにパニックになり、助走距離を測ることができないまま本番を迎えてしまいました。平常ではないメンタルと勘で決めた助走距離では本来の跳躍ができるわけもなく、普段であれば余裕の5m35㎝を3回失敗し、記録なしで終了。人生ではじめて棒高跳びが楽しくないと感じました。
しかし切り替えが早いのが僕の強みです。高校時代から自己分析を繰り返してきたからこそ、ロンドンオリンピックでの悔しさも原因さえ克服すればよいと考えました。海外のアウェー感が自分らしい跳躍をできなかった最大の要因のため、まずは海外に慣れるためにスウェーデンで行われた日本陸上競技連盟の合宿に参加しました。その後もアメリカやフランスなど、大学時代は冬休み期間中、大学を卒業しトヨタ自動車に所属してからは1年の半分以上を海外で過ごしました。するとだんだんどの国で行われる大会もホームのように感じられるようになっていきました。
そして社会人3年目のとき、二度目のオリンピックとなるリオ大会に出場しました。海外の環境にはすっかり慣れていたうえ、当日の調子も万全。4年前の雪辱を果たすにはこの上ないコンディションでした。しかしいざフィールドに立ったら4年前のことが一気にフラッシュバックし、またもや頭が真っ白に……。二大会続けて記録なしという結果に終わりました。今回ばかりは自分でもどうしたらいいのか分からず、その日のうちにリオ大会に帯同していた小林コーチ に「もうやめます」と伝えました。すると、当時はまだ僕の専属コーチではなかったにも関わらず 「これで満足しているのか?」「お前のレベルを指導できるのは俺しかない」と言ってくれたんです。高校時代からずっと「自分で考えること」を指導方針とする先生方にお世話になっていたため、二人三脚で歩む未来を予感させるその言葉に、一気に心を動かされました。そして、もう少しだけ頑張ってみようと決意しました。
その後、小林コーチの指導の下、新たな気持ちで棒高跳びに向き合いました。2018年のアジア大会では5m70cmを跳んで大会記録を更新し、日本勢12年ぶりとなる金メダルを獲得。その勢いで突き進み、2021年に行われた東京オリンピックでは5m30cmを跳ぶことができました。二度の記録なしでトラウマになっていたオリンピックのバーをはじめて越えたときは、安堵と喜びの気持ちでいっぱいになりました。高さだけで考えたら決して満足のいく結果ではなかったですが、僕の競技人生においては大きな価値のある跳躍となりました。
山本 聖途選手からのワンポイントアドバイス
高校生のうちは、何よりも「体力づくり」を大切に
棒高跳びは、助走の勢いがポールの曲がり方に大きく影響します。そのため重たいポールを持った状態で、いかに早く、いかに安定した助走をできるかが重要です。そこで僕が高校生のときにやっていた助走を強化するトレーニングをご紹介します。
(1)加速力を鍛える300m走…棒高跳びの助走は、スタートから徐々に加速していき踏み切りの瞬間にトップスピードになることが理想です。加速力を鍛えるには、300mを3つに区切って徐々に加速していくトレーニングが効果的です。最初の100mは6割、次の100mは7割、最後の100mは8割などとスピードを上げていくことで、加速のリズムが体に馴染んでいきます。週に1~2回、3セット程度取り組んでみてください。
(2)回転力を鍛えるハードル走…足を速く回転できれば助走も速くなるため、150mのハードル走で回転力を鍛えましょう。ポイントは適当な間隔でハードルを置くこと。ハードル間を決まった歩数で走れず、足を細かく刻んで踏み切り位置に合わせる必要があるので、自ずと足の回転が速くなります。これは週に2回、3本×3セット程度行ってみてください。身体の左右のバランスを崩さないように、1セット(3本)のうち1本目を左足、2本目を右足、3本目を左足で踏み切ります。
(3)安定感のある走り方を身につける300m走…いくら足が速かったとしても、2kg前後の重たいポールを持った状態で走れなくては意味がありません。そこで僕がやっていたのが、ポールを持って300mを全力で走るトレーニングです。おそらく最初は走りきることも難しいと思うのですが、練習を繰り返すうちに「どうやって持つと楽に走れるのか」を体が覚えるはずです。ちなみに僕はこのトレーニングを練習メニューのひとつとして週に1回取り組むほか、毎日の練習後に罰ゲームとしても行っていました。皆でその日の練習で越えるバーの高さを決め、達成できなかったらポールを持って走るんです。いつも高めの目標を設定してしまう僕は、毎日のように走っていました(笑)
高校生は体力のつきやすい時期です。バーを越えるコツなど技術的な部分は大人になってからでも十分カバーできるので、まずは基礎体力をつけることを意識してほしいと思います。また、ご紹介したトレーニングが自分の身体に合うとは限らないので、よりよい方法を考え、実践してみてください。
(1)加速力を鍛える300m走…棒高跳びの助走は、スタートから徐々に加速していき踏み切りの瞬間にトップスピードになることが理想です。加速力を鍛えるには、300mを3つに区切って徐々に加速していくトレーニングが効果的です。最初の100mは6割、次の100mは7割、最後の100mは8割などとスピードを上げていくことで、加速のリズムが体に馴染んでいきます。週に1~2回、3セット程度取り組んでみてください。
(2)回転力を鍛えるハードル走…足を速く回転できれば助走も速くなるため、150mのハードル走で回転力を鍛えましょう。ポイントは適当な間隔でハードルを置くこと。ハードル間を決まった歩数で走れず、足を細かく刻んで踏み切り位置に合わせる必要があるので、自ずと足の回転が速くなります。これは週に2回、3本×3セット程度行ってみてください。身体の左右のバランスを崩さないように、1セット(3本)のうち1本目を左足、2本目を右足、3本目を左足で踏み切ります。
(3)安定感のある走り方を身につける300m走…いくら足が速かったとしても、2kg前後の重たいポールを持った状態で走れなくては意味がありません。そこで僕がやっていたのが、ポールを持って300mを全力で走るトレーニングです。おそらく最初は走りきることも難しいと思うのですが、練習を繰り返すうちに「どうやって持つと楽に走れるのか」を体が覚えるはずです。ちなみに僕はこのトレーニングを練習メニューのひとつとして週に1回取り組むほか、毎日の練習後に罰ゲームとしても行っていました。皆でその日の練習で越えるバーの高さを決め、達成できなかったらポールを持って走るんです。いつも高めの目標を設定してしまう僕は、毎日のように走っていました(笑)
高校生は体力のつきやすい時期です。バーを越えるコツなど技術的な部分は大人になってからでも十分カバーできるので、まずは基礎体力をつけることを意識してほしいと思います。また、ご紹介したトレーニングが自分の身体に合うとは限らないので、よりよい方法を考え、実践してみてください。
※掲載内容は2022年11月の取材時のものです。
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