PROFILE
1990年8月21日生まれ。埼玉県越谷市出身。長距離水泳を得意とし、中学2年生の時に200mバタフライで初めて全国大会に出場。4位入賞を果たす。高校1・2年生でインターハイを連覇。3年生の時に日本選手権で高校新記録を出し、夏には北京オリンピック出場を果たす。活躍の裏では16歳でバセドウ病を発症し、治療しながら競技を続けていった。高校卒業後は早稲田大学に進学。大学4年生で2度目となるロンドンオリンピックに出場し、銅メダルを獲得。大学卒業後は、2015年の世界水泳選手権で金メダリストとなり、翌2016年に挑んだリオデジャネイロオリンピックでは銅メダルを獲得した。現役引退後は講演等で活躍するなか、2023年からはパラ競泳の木村敬一選手のフォームコーチに就任。木村選手と共にパリパラリンピックで金メダル獲得を目指す。星奈津美さんの学生時代は・・・
200mバタフライと出会い、高校生でオリンピックの舞台へ
泳ぎの基本である4泳法(クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ)は幼稚園の時に習い終えていたものの、ほかの子と比べると泳ぎは遅い方でした。競泳選手としての道が開けたきっかけは、200mバタフライとの出会いです。小学校までは50mと100mの種目しかないのですが、中学校からは長距離種目である200mの大会にエントリーできるようになります。私はもともと持久力があり、陸上競技でも長距離走が得意でしたし、コーチからも長距離が向いていると言われていたので、200mであれば自分の強みを活かして実力が発揮できると思いエントリーしました。そこから少しずつ全国大会への道が見えてきて、タイムもどんどんよくなっていき、中学2年生の時には全国大会4位という結果を残すことができました。この時は表彰台まであと一歩だったなとしか思いませんでしたが、翌年の大会でも同じく4位に終わり、初めて悔しいという気持ちを味わいました。
高校に進学すると、中学時代の悔しい気持ちをバネにして、普段の練習メニューに加えてランニングを始めました。そうした自主練習の成果もあり、高校1年生のインターハイで優勝することができました。どんどん調子が上がっていった時期だったのですが、高校1年生の終わり頃、ひどい疲れと発熱から病院に行ったところ、甲状腺疾患であるバセドウ病と診断されました。初めて病名を聞いた時は、このまま水泳を続けられるか不安でいっぱいに。ですが、幸いにも早期発見だったのと、スポーツに理解のある先生に診ていただいたおかげで、発症から3か月後には練習に復帰することができました。その後も投薬治療と検査に通いながら水泳を続けました。
高校2年生のインターハイでも優勝し、2年生の終わり頃には、北京オリンピック前にテストイベントとして開かれるプレ大会に出場する機会をいただきました。そこで自己ベストを3秒縮める好記録を出せたことを機に、高校生でオリンピックに行けるレベルの選手が出てきたとメディアで注目されるようになりました。周りの環境が一気に変わったタイミングでしたね。正直、オリンピックに出場できるとは思っていなかったのですが、高校3年生でオリンピック代表メンバーの仲間入りを果たしました。思いがけない出来事にずっとふわふわとした気持ちでいました。試合中も頭が真っ白で、予選と準決勝の2本のレースを泳いだものの、自分のレースについてはほとんど覚えていないくらいです。ですが、同じ代表メンバーとして出場された北島康介さんが2種目2連覇されたのを目の当たりにし、初めて人のレースで涙が出るほど感動しました。「私も北島さんのように人の心を動かせる選手になりたい!」と、目標が明確になった大会でした。
金メダリストとしての重圧と、病気を乗り越えて
3度目のオリンピックで大満足の銅メダルを獲得
大学4年生の時には、ロンドンオリンピックに出場。2度目のオリンピックでは、調子の“ピーク”を大会本番に合わせる「ピーキング」の難しさを実感しました。なぜかというと、オリンピックの数カ月前に行われた選考会で日本記録を更新し、世界ランキングも1位になったのですが、オリンピックでは選考会と同等の記録が出せなかったからです。結果は銅メダルで、4年間かけてメダルを獲得できる選手になれたのはうれしいことでしたが、オリンピック本番で実力を最大限発揮する難しさを痛感しました。
大学卒業後はスポーツメーカーのミズノに所属し、3度目のオリンピックとなるリオデジャネイロオリンピックに向けて競技に専念しました。大学時代は弱点の克服を重視していましたが、自分のレース戦略を考え、得意な後半の追い上げを伸ばすため、もう一度練習を積み重ねていきました。
3度目のオリンピックまでの道のりは、困難の連続でした。2014年に大きな国際大会が2つ重なったことでの疲労からか、それまで安定していた病気の数値が正常値を超え、症状が悪化したのです。そこで、翌2015年の世界選手権へ出場ができなくても2年後のオリンピックに間に合えばと思い、甲状腺摘出手術を決断しました。結果、術後の奇跡的な回復により世界選手権の選考会に出場することができ、迎えた本番では、競泳女子日本選手として初めて金メダルを獲得したのです。
ですが、世界選手権で金メダルを獲得し、ほかの選手よりも早くオリンピックの内定をもらえたことに対してプレッシャーを感じるようになりました。メンタルの波が激しく、オリンピック直前の2カ月前くらいは非常に苦しい状態で、不調であることも周りに伝えられずにいました。ですが、コーチはそんな私の状況に気づいていて、「今すごく苦しんで悩んでいるだろう。隠さなくてもいいからな」と声をかけてくださったのです。その言葉が心に響き、涙がわっと溢れてきました。「最後は俺が何とかしてやるから」とも言ってくださり、とても救われたと同時に、コーチの覚悟に自分も応えたいと思ったのです。そこからまた少しずつ、オリンピックに向かって立て直していくことができました。
病気やメンタルの不調など、さまざまな困難を乗り越えて、3度目のオリンピックに出場。この大会ではとにかくやり切ったという気持ちが大きかったです。そこにご褒美として銅メダルもついてきてくれて、本当に満足のいくオリンピックとなりました。
星奈津美さんからのワンポイントアドバイス
練習でやり切ることが、大会での自信になる
(1)トータル2000mを最後まで泳ぎ切る練習
自分の種目で合計2000m泳ぐ練習方法です。泳ぎ方は3パターンあり、50m×40本、100m×20本、200m×10本のいずれかを泳ぎます。間の休憩は1分です。すべての本数においてタイムを落とさないように、最後まで泳ぎ切ることを大事にしてください。
各パターンの目的はそれぞれ異なります。50m×40本は、40本通してスピードを維持することが目的です。100m×20本は、一番タイム落差が出やすくなるので、タイムを落とさないようにスピードと持久力のバランスを考えながら泳ぎ切ることが目的です。1本泳ぐなかでも前半50mと後半50mのタイム差が出ないように泳いでみてください。200m×10本は一番持久力が問われます。タイムを落とさないようにしつつ、最後まで粘って泳ぎ切ってください。
スピードや持久力など、人それぞれ強みや弱みがあると思うので、自分に適したパターンで泳ぎ切ることで苦手な部分の強化にもつながります。最初は余裕があっても本数を重ねるごとに息が上がっていき、苦しいなかで泳がなくてはいけなくなります。ですが、力を出し切って泳いだ経験が大会本番の自信につながるはずです。
(2)自主的に取り組むプラスアルファの練習
コーチに言われた練習メニューだけでなく、プラスアルファの練習を自主的に行うことが、自信につながります。私は高校生の時から社会人まで2~3kmのランニングを毎日続けていました。合宿で高地トレーニングに行った時も、酸素が薄いなかで2km走っていました。私の場合はランニングでしたが、自分に足りないことや強化したいことを練習するといいと思います。
※掲載内容は2024年4月の取材時のものです。
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