母がママさんバレーの選手でスパイカーをやっていました。子どもの頃から母の練習について行っては見ていましたから、母の影響でバレーボールをやりたいと思うようになったんでしょうね。そこで小学校にあった上宇坂スポーツ少年団に入って、バレーボールを始めました。最初はセッターをやっていたのですが、スパイクを打つ母の姿がかっこいいと思っていたので、早く打てるようになりたくて、セッターよりもスパイクの練習ばかりやっていました(笑)。その甲斐もあってか、中学のバレーボール部では最初からスパイカーをさせてもらっていました。 中学生になってからは、バレーボールへの思いも少しずつ変化してきました。それまでは遊びの気持ちが大きかったのが、県下では優勝を争うような強豪校のバレーボール部だったのでモチベーションも高く、全国を目指すんだという思いが日増しに強くなっていきました。それだけに厳しさもありました。監督もすごく厳しい方で、バレーボールの基礎をみっちりとたたき込まれたと言えますね。でもこの中学時代の基礎練習こそ、後々、バレーボール選手としてやっていくうえでの基盤作りになったことは間違いありません。 そして次のステップになったのが、福井工業大学附属高等学校のバレーボール部でした。全国でベスト8に入るような強いチームでしたが、何より自分たちで考えるバレーボールが監督の指導方法でした。個人がどう動くか、チームがどのように戦うかを監督と相談しながら決めていくようなスタイルです。選手たちにとって、バレーボールがすごく楽しいと感じながらプレーできたことは大きな力になったと思います。僕にとって、小学校、中学校、高校とそれぞれ違った指導者の下で確実にステップアップしていくことができたと感じています。楽しさと厳しさ、そして考える力を学びました。
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