田知本 遥さん
元柔道選手(70㎏級)
リオデジャネイロ・オリンピック金メダリスト
田知本 遥さん
元柔道選手(70㎏級)リオデジャネイロ・オリンピック金メダリスト
PROFILE
1990年8月3日生まれ。富山県射水市出身。小学校2年生の頃から姉である元柔道選手・田知本愛さんと柔道を始め、高校1年生にインターハイで団体優勝した。大学は、柔道の名門である東海大学へ進学。4年時に全日本選抜で優勝を収め、2012年のロンドン・オリンピックに出場した。しかし、本大会では準々決勝の試合中に肘を痛め、初めての五輪は7位と悔しい結果に終わる。大学卒業後は、綜合警備保障(ALSOK)に所属し、2016年のリオデジャネイロ・オリンピックに出場。大会本番では、得意の大外刈りを生かして金メダルを獲得。日本女子柔道界で唯一の世界一の座をつかんだ選手となった。2017年、約20年に及ぶ競技人生に幕を下ろし、筑波大学大学院の人間総合科学研究科に進学し、スポーツ健康システムマネジメントを専攻。自身の経験を探究し、意識や文化などを明らかにしていく研究法である「自己エスノグラフィー」を用いた、オリンピズムの本質を研究。修了後も論文を執筆するなど、現在もオリンピックを取り巻く社会や後進の選手に向けて、オリンピックの価値を問う活動に注力。子供向けの柔道教育プログラムへの参画も計画中だ。田知本 遥さんの学生時代は・・・
中学1年生で「日本一」を心に誓い、高校3年生で成し遂げた
中学は小杉中学校に進学。この学校の柔道部は富山県内で一番強い名門校でしたが、女子柔道部はなく、あったのは男子柔道部だけだったんです。姉の後を追って入部しましたが、男子と一緒の厳しい練習についていけなくて、最初のうちは家でよく泣いていましたね。
それでも「がんばろう」と思えたのは、中学1年生のときに出場した「全国中学柔道大会」で3位に入賞したことがきっかけでした。初めての全国大会だったこともあり、私が入賞できるとは誰も思っていなかったようで、付き添いの先生もとても驚いていました。でも私は、優勝できなかったことがとても悔しかったんです。試合後に、「もし本気で1位を目指して練習すれば、全国優勝できるんじゃないか」「絶対したい!」と、日本一を強く心に誓った瞬間がありました。それ以降は、体力差がある男子と試合をしても「負けて当然」ではなく、「負けない!」という気迫が増しましたね。負ければやっぱり悔しいので、「いつもだったらすぐ抑え込まれていたけれど、今日は30秒がまんできた」などと自分を鼓舞しながら、あきらめずに技を磨いていきました。
その後、小杉高等学校に進学。この学校には女子柔道部があったのですが、自分から志願して男子柔道部でも練習させてもらっていました。印象に残っている試合は、インターハイです。高校1年と2年、連続で1学年上の上野巴恵選手に負けてしまい、とても悔しい思いをしました。迎えた3年生の大会では上野選手は高校を卒業していて、ライバル不在。周りからも私が優勝すると思われているプレッシャーから、全国大会の前には練習を逃げ出したこともありました。でも、逃げ出したからこそ自分の気持ちを整理できたことも事実です。再び厳しい練習に立ち向かい、中学1年生のときに立てた「日本一」の夢を叶えることができました。
2度目の五輪となるリオ大会では悲願の金メダルを
負けたときの悔しさをバネに、海外武者修行を経て世界のトップに
大学卒業後は、綜合警備保障(ALSOK)に所属し、柔道選手として多くの試合に出場しました。しかし、ロンドン・オリンピック以降、「絶対勝つ」という目標に心と身体がついていけず、国内大会の成績も不本意な結果が続きました。そこで、「一度、気持ちをリセットしよう」と、2014年にイギリスに単身武者修行に行ったんです。イギリスでは、国際大会でライバルとして戦う同じ階級の選手と厳しい稽古に挑むかたわら、それ以外の時間は友人として時間をともにすることも多く、まさに心身ともに充実した日々を過ごしました。
こうしてスランプから抜け出して挑んだ、私にとって2度目のオリンピックとなったリオデジャネイロ大会。自分自身でも「今が競技人生のピークなんだろうな」「自分自身の集大成。これが最後のオリンピックになるのだろうな」と感じるほど安定した気持ちで臨むことができました。結果は、金メダル。イギリスで一緒に稽古をした選手も銅メダルを受賞し、同じ表彰台に立てたのも感慨深かったですね。
田知本 遥さんからのワンポイントアドバイス
体を鍛えるのと同時に、自分の心を素直に言葉にする時間を
中学校のころから続けていたのは、体育館の天井から吊り下げられた長いロープを登るトレーニングです。最初はどんなに頑張っても登れなかったのに、最終的には手だけで登れるようになっていました。また、持久力と瞬発力をつけるために、縄跳びとダッシュもトレーニングメニューに入っていました。縄跳びは、特別な飛び方ではなく普通の前飛びを黙々とひたすら続ける。ダッシュは、長距離を走り終わってから行うなど、かなりストイックな方法でやっていました。このほかにも、腹筋や体幹を鍛えるトレーニング、ストレッチなども日課でした。
そして、体を鍛えることと同じくらい大事なのが、自分の気持ちを整理して言葉にしていくことです。そのために私は、「こうなりたい」という目標を常に口にするようにしていました。同時に心がけていたのが、自分の心の弱さも含めて、思っていることから目を背けず、正直に言葉にする時間をもつこと。誰にも話せないことであれば、ノートに書くだけでもいいんです。私が学生のころにつけていた「柔道日記」には、柔道のほかにも、自分の弱さや心にあるモヤモヤなどもたくさん書き記されています。弱音もたくさん吐きましたが、必ず最後に強気な言葉で締めくくるようにしていました。そうすると、弱い自分を受け止めながらも、強気な言葉のほうが強く心に残っていくんです。インターハイのときも、リオデジャネイロ・オリンピックのときも、私はそうやって自分の精神を保っていた気がします。
※掲載内容は2021年12月の取材時のものです。
2/2ページ