PROFILE
1955年5月9日生まれ。千葉県出身。習志野市立習志野高校野球部で1年生の秋から4番を打つ。当時の守備位置は遊撃手。2年生の夏1972年、強豪・銚子商業に勝って東関東代表として甲子園の土を踏むが、1回戦で東洋大姫路に敗れる。
1974年、ドラフト6位で阪神タイガース入団。ルーキーとしての成績は打率.204、本塁打3本だったが、3年目には.325を打ちベストナインに。1985年、19年ぶりのチーム優勝にも貢献。ミスタータイガースと呼ばれた。1988年シーズン終了後引退するまで1625試合に出場し、1656安打、349本塁打で3度の本塁打王に輝く。引退後はプロ野球解説者としてマイクの前に立つとともに、タレントとしても活躍中。
掛布 雅之さんの学生時代は・・・
物心ついたときからボールを握っていました
長嶋さんや王さんの全盛期で、運動好きの男の子はみんな野球をやっていましたね。父が高校野球の監督をやっていたことから、いつか自分の息子を甲子園に行かせたいという思いもあったのでしょう。でも、野球だけをやっていたわけではありませんでした。小学校時代は水泳も剣道もサッカーもやらせてくれました。もちろん野球に役立つという理由でしたけれど。小学校3年生のときに近所のスポーツ用品店のショーウインドウに飾ってあったグローブが欲しくて欲しくて、父に買ってくれと頼んだことを覚えています。「スキー旅行に行くか、グローブを買うか」と二者択一を迫られ、迷うことなくグローブを選びました。嬉しかったですね。グローブを抱いて寝ましたもん。毎日オイルを塗って手入れをして、高校に入るまでずっとこのグローブを使っていました。
高校に入学して、タテ社会・ヨコ社会を実感しました
僕が高校時代を過ごした習志野高校は、僕が入学する4年前に夏の甲子園で全国制覇を果たした強豪校でした。入学式の前、春休みに体験入部させてもらうと、このときはまだ僕たちはお客様扱いですから、先輩たちもとても優しく接してくれました。しかし入学式の翌日を境に先輩も監督も態度がガラッと変わりました。それは厳しかったですよ。タテ社会を叩き込まれました。来る日も来る日も球拾いばかり。バットには触らせてももらえませんでした。練習が終わると、1年生でダッシュの競争をさせられるんです。300メートルほどダッシュして、1位になったら抜けられるんですが、トップにならないと何度でも走らされます。足が遅くて走り続けている同級生を庇おうと仲間同士で示し合わせると、必ず先輩たちは見抜くんですね。「辞めるときは一緒だぞ」とか「ひとりで悩むな」とか互いに励ましあったものです。ヨコ社会のつながりを実感したのもこの時期でした。
3年生が引退すると、いきなり4番打者に抜擢されました。球拾いばかりの厳しい新人生活も、いま思うとわずか4か月ほどでした。新チームでは、ほかにも1年生が4人レギュラーになりましたから、「負けたくない」と思いましたね。
1972年、2年生の夏の大会。決勝の相手は同じ千葉県の銚子商業。何度も甲子園に進んでいる強豪校です。不安もありましたが、一度練習試合で自分たちが勝っていたんですね。そのイメージが残っていたからでしょうか、「行けるんじゃないか」と思ったところ、2対0で勝って憧れの甲子園への切符を手にしました。
開会式を前にした公式練習でグラウンドに立ったとき、スタンドの大きさに圧倒されると同時に内野グラウンドの手入れのよさに驚きました。スパイクの歯が土に入る感触が違うんです。包丁で大根を切るような“シャキッ”という音がする。そして土の黒さとボールの白さのコントラストも印象に残っています。試合は兵庫県代表の東洋大姫路に敗れました。主将として臨んだ3年生の夏は予選で敗退しましたから、高校球児としての甲子園はこの1試合だけということになりますね。
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掛布 雅之さんからのワンポイントアドバイス
目をそらすな、目で感じろ
野球に限らず球技はどれもそうですが、目で感じることが大切ですね。目でプレーするというか、最後までボールから目を離さない。そりゃ、もちろんピッチャーが投げる球も、ゴロやライナーで飛んでくる打球も怖いですよ。でも、怖がっていたら目をそらしてしまうんです。だから、ボールを好きになるんです。好きになるとボールが怖くなくなる。そうすると、球の縫い目が見える。球が止まって見えてくるんです。
すごく基本的なことですが、キャッチボールが大事だと思います。適度な距離でボールを投げあい、そしてキャッチする。この繰り返しを通じてボールを好きになっていくことができたらしめたものですね。
掛布 雅之さんからみんなへメッセージ
あきらめずに続けた者だけが感じられる
スポーツの世界ですから、勝ち負けという結果がついてまわりますが、その前にあきらめる負けはしちゃいけませんね。習志野高校野球部に一緒に入った60人のうち、結局残ったのは15人ほどでした。厳しくはあったけれども、それでも野球を続けたいと思う自分がどれだけ野球が好きなのかということを確認し続けた毎日でもありました。あきらめずに続けた者だけが感じられる何かがあります。同級生の中にはベンチ入りすることもできないまま卒業した仲間もいましたが、今でも同じ立場で親しく付き合っています。あきらめずに続けたことで、そんな宝物ともいえる仲間ができたんです。
※この記事は2006年12月に取材したものです。プロフィール等は取材時点のものですので、ご了承ください。
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